新緑の門松の絵の年賀はがき、 家族そろった楽しい笑顔のカラー写真の年賀状など今年もたくさんもらい、 ダイニングルームの周りに飾って、 楽しませてもらっている。 「もう新年になったのか」としみじみ思うのもこれらの年賀状を眺める時である。 また自分の歳に一を足す時でもある。
その中に一枚だけ、 曲がりくねった列、 へたくそのアルファベットで、 私の住所を書いた日本のお年玉付の年賀状がある。 たくさんの年賀状の中で一番お粗末である。 でも私はこの年賀状が、 私に何かを訴えている。
これは九十四歳になった私のお袋からの年賀状である。
たぶん、弟の道雄に私の住所を英語で何かに書いてもらい、それを目をしょぼしょぼさせながら、 それこそ、 丹念に一字一字のアルファベットを真似て書いたと思う。 一字一字を書くたびに、「徳市はどうしているかなぁ」と長男の私の顔を思い浮かべながら書いたであろう。
傍で弟の道雄が、 「ほれ頑張れ、 もう一息」と励ましながら。 「物を粗末にしたらアカン」が口癖のお袋に、「一字間違ってもアメリカには届かんよ、 一字間違っても年賀はがきは使えなくなり、 葉書の無駄になるんだよ」と言って笑わせながら書いているおふくろの顔も見えてくるようだ。
私の故郷喜界島、 昔のオメトおばあさんを思い出した。 私のおふくろの母親である。 その当時の選挙の頃、おばあさんは選挙の何日も前から、字の稽古に励んだ。 カタカナの字である。 おばあさんの字の稽古は、 朝の一番鳥二番鳥の鳴く、午前三時、 四時から始めるサツマイモを煮るときである。
鍋にくべる薪の小枝で、 おじいさんに教えられた「ヤスオカ」と昔の自由党候補者の名前を地面に何回も書いては消し、書いては消しして稽古していた。 「自由党は何でも自由にやらせてくれる、 百姓の味方は自由党」とおじいさんがおばあさんに言っていたのを思い出す。
お袋からの年賀状の裏は立派である。 列をはみ出さないで、 縦に「新年明けましておめでとうございます。 病マンネン、 気張りよ!」
と見事にはっきりと書いてある。 この新年挨拶の字体と文章を見ると、少し安心する。 字に お袋の元気な姿が出ている、文章に 改まったお袋の様子が伺える。 またどうして自分の息子に「おめでとう」だけでいいのに「おめでとうございます」とご丁寧に”ごさいます”まで付けている。 「これをしたらアカン、 あれをしなさい」と小さい時にお袋に言われた命令調の言葉ばかりが頭に残っているから、 少しこそばいような気持になる。
「何歳になっても子供は子供」と言っていたおふくろが「もう身体が言うことをきかない、 もう生かされているだけだよ」と 社長の座を息子の私に譲ったなぁという気もする。
「ギンキシィ 気張りよー」
「ギンキシィ うもーりよー」
「病マンネン 気張りよー」と 昔の喜界島の人達が言っていたこの言葉が五十年以上経った今も、 このアメリカでも耳元に大きく残っている。 たくさんの見送り人のこの言葉に包まれて、 若者達は桟橋から御幸丸で大和(内地)へ向かった。
もういつ会えるかわからない、 ひょっとしたらこれが最後の別れになるかもしれないと寂しい思いの中に、 身体を大事にして、 頑張れよと叫んでいた。 交通の発達していなかった昔、 喜界島から大和へ旅するのは最後の別れも意味していたように思う。
まず第一が健康、 元気、 その次が気張りよー。
私のお袋は「病マンネン、 気張りよー」の後に「人に負けるなよー」と必ず付け加えた。 その言葉は私よりも自分に言い聞かせているように思えた。 島で、貧乏を味わい、 苦労したからだろうか。 それともお袋は負けず嫌いの性格だったかもしれない。 もしそうだとすれば私はその負けず嫌いを継いでいるような気がする。
今年の年賀状は”人に負けるなよー”がなくなって、”病マンネン、気張りよー”だけになっている。 九十四歳なり、コタツに入ったまま動こうとしない奈良にいるお袋の老体が浮かんでくる。
「お袋、ギンキシィ、 長生きシィ、 うもーりよー」
上園田 徳市 2010年3月発行TVファンより
「フリムン徳さんの波瀾万丈記」


今日もご訪問有難うございました。
その中に一枚だけ、 曲がりくねった列、 へたくそのアルファベットで、 私の住所を書いた日本のお年玉付の年賀状がある。 たくさんの年賀状の中で一番お粗末である。 でも私はこの年賀状が、 私に何かを訴えている。
これは九十四歳になった私のお袋からの年賀状である。
たぶん、弟の道雄に私の住所を英語で何かに書いてもらい、それを目をしょぼしょぼさせながら、 それこそ、 丹念に一字一字のアルファベットを真似て書いたと思う。 一字一字を書くたびに、「徳市はどうしているかなぁ」と長男の私の顔を思い浮かべながら書いたであろう。
傍で弟の道雄が、 「ほれ頑張れ、 もう一息」と励ましながら。 「物を粗末にしたらアカン」が口癖のお袋に、「一字間違ってもアメリカには届かんよ、 一字間違っても年賀はがきは使えなくなり、 葉書の無駄になるんだよ」と言って笑わせながら書いているおふくろの顔も見えてくるようだ。
私の故郷喜界島、 昔のオメトおばあさんを思い出した。 私のおふくろの母親である。 その当時の選挙の頃、おばあさんは選挙の何日も前から、字の稽古に励んだ。 カタカナの字である。 おばあさんの字の稽古は、 朝の一番鳥二番鳥の鳴く、午前三時、 四時から始めるサツマイモを煮るときである。
鍋にくべる薪の小枝で、 おじいさんに教えられた「ヤスオカ」と昔の自由党候補者の名前を地面に何回も書いては消し、書いては消しして稽古していた。 「自由党は何でも自由にやらせてくれる、 百姓の味方は自由党」とおじいさんがおばあさんに言っていたのを思い出す。
お袋からの年賀状の裏は立派である。 列をはみ出さないで、 縦に「新年明けましておめでとうございます。 病マンネン、 気張りよ!」
と見事にはっきりと書いてある。 この新年挨拶の字体と文章を見ると、少し安心する。 字に お袋の元気な姿が出ている、文章に 改まったお袋の様子が伺える。 またどうして自分の息子に「おめでとう」だけでいいのに「おめでとうございます」とご丁寧に”ごさいます”まで付けている。 「これをしたらアカン、 あれをしなさい」と小さい時にお袋に言われた命令調の言葉ばかりが頭に残っているから、 少しこそばいような気持になる。
「何歳になっても子供は子供」と言っていたおふくろが「もう身体が言うことをきかない、 もう生かされているだけだよ」と 社長の座を息子の私に譲ったなぁという気もする。
「ギンキシィ 気張りよー」
「ギンキシィ うもーりよー」
「病マンネン 気張りよー」と 昔の喜界島の人達が言っていたこの言葉が五十年以上経った今も、 このアメリカでも耳元に大きく残っている。 たくさんの見送り人のこの言葉に包まれて、 若者達は桟橋から御幸丸で大和(内地)へ向かった。
もういつ会えるかわからない、 ひょっとしたらこれが最後の別れになるかもしれないと寂しい思いの中に、 身体を大事にして、 頑張れよと叫んでいた。 交通の発達していなかった昔、 喜界島から大和へ旅するのは最後の別れも意味していたように思う。
まず第一が健康、 元気、 その次が気張りよー。
私のお袋は「病マンネン、 気張りよー」の後に「人に負けるなよー」と必ず付け加えた。 その言葉は私よりも自分に言い聞かせているように思えた。 島で、貧乏を味わい、 苦労したからだろうか。 それともお袋は負けず嫌いの性格だったかもしれない。 もしそうだとすれば私はその負けず嫌いを継いでいるような気がする。
今年の年賀状は”人に負けるなよー”がなくなって、”病マンネン、気張りよー”だけになっている。 九十四歳なり、コタツに入ったまま動こうとしない奈良にいるお袋の老体が浮かんでくる。
「お袋、ギンキシィ、 長生きシィ、 うもーりよー」
上園田 徳市 2010年3月発行TVファンより
「フリムン徳さんの波瀾万丈記」

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コメント
コメント一覧 (14)
手を上げてにっこり笑っている喜界島のお母さんの姿が目に浮かぶようです。ありがとうございます。
母親の愛情って絶大ですよね。私の母は冷たい母親に育てられたからって言うんですが、私たちにも優しい言葉って無かったし、一緒に遊んでもらった記憶はないし…はっきり言って厳しいだけの母です。孫にも、しょっちゅう会うのは鬱陶しいらしく、来なくていい。って言います。友達から電話があったら 自慢ばかりで聞きたく無いって言います。でも、私は母が好きなんでしょうね。いや、好かれたいんですよ!そうなんです。子供の頃からずっと、兄の事ばかり構う母に愛されたくて、良い子にしてました。母の前だけ…陰ではばれない様に悪さして…
私は自分の子供にその連鎖を繰り返さない様にいつも出来る限り抱きしめてキスしてアイラブユーって言うてます。ありがとうも言います。母にされたかった事ばかり!昔の人だから仕方ない。って母は言います。そうですね私が冷たいのかも?真ん中の子供の特徴かも?今年の始めに悪い事が私たちの周りに次々起こって、御墓参りに行きましたら、止まったんですよ。親や祖先は大事にしないとね。
こんばんは〜〜〜
今先娘が帰ってほっとしました。 家族がくると忙しいです〜。
このエッセイを書かれたのが去年ですからフリムンさんのお母様は今年95歳ですね。
母が初めてアメリカに来た時、飛行機で名前が書けるようにアルファベットを書く練習をしてたのを思い出します。
いいですね〜〜自分の経験をよく生かす人と同じ事をしてしまう人と二通りです。
私の父は生まれて直ぐ母親(つまり私の祖母)が病気でお乳が出なかったので乳母に育てられたのです。家から離れて3歳まで。 自分の家に乳母と戻った時は母親の愛情は全くなくそれだけに乳母の方になつくと母親はまたそれを可愛くないと思い家庭愛は全くない子供時代でした。 自分が寂しく育ったのでそのぶんだけ家庭を大切にして私達もともて大事にしてくれました。 そして私が父を尊敬する理由はそういう母親の悪口を私達に一度も言った事がないのです。 私は周囲の人たちから聞かされました。 でも50歳を過ぎた頃からは母親をとても大事にしていたので最後はとても良い関係でした。 私も姉と比べて成績が悪かったので姉にコンプレックスがありましたが父はいつも全部良い成績をとるより何か一つ好きな科目があるほうが良いと言って褒めてくれました。そういうのって子供の時は大切ですよね。 大人になっても親の言葉は良くても悪くても身にしみますよね。
日本に返還されたのが、1972年、
フリムン徳さん、29歳の時だったのですね。
当時 大和(内地)へ 向かうことが 一生の別れになるかもしれないという言葉が 想像されます。
私もフリムンさんより1歳下のだけですから 思い出して想像できるものが 多々あります。 今の時代ですと 学校を終えて進路を変え寄り道することは 簡単ではありませんが、 当時は 貧しかったけど 夢を追うこと、冒険することが怖くもなかったのかもしれません。 現代は 均一的になり
社会が変わりました。
フリムンさんが これからも お元気で 当時の話を次につないでいってほしいと 願っております。
私の波乱万丈は ある高校に入学したのですが、とても遠かったのです。下宿をしたかったが、親は授業料だけでも 大変なので、下宿はうんといってもらえなかった、私は級友に間借りする部屋を探してもらい、朝 下宿がしたいと父の置手紙をして学校へ行ったのです。父は娘の置手紙に驚き 許可してくれました。バスに通学のカバンと布団を持ち込んで運んだのです。布団を紐で縛ってどうやってバスに乗り込んだのか、今の私には とてもできません。でも 下宿したのに毎週家に帰りたくてしかたなかったです。親からしなさい、してはいけないとか言われたことが ないので、 時代が生活していくことで 精一杯だったのですね。
チブリッツさん、MAg、ありがとう、私は最近
特に u,a,r,lが こんがらかってしまい、前よりもっと無意識に間違ってしまいます。Magさん、これで
間違えませんからね。 今 Magさんのブログは
パズルに悪戦苦闘という題なのですが、私も謎が
解けません。 こういうのって、いつか ひょっと 分かることがありますね。
今日は 秋晴れ、市の公園に夫と行き、小道を散策してきました。 太陽を浴びてよい日曜日でした。
花に名前の札がさしてあったのが、何の花か分かり
楽しかったです。 名札があるところは少ないです。
私の波乱万丈なんて全て自分本位。小学校の時は大好きなグループサウンド(古っ!)の映画観に5人で学校の塀をよじ登り脱走。映画館では超盛り上がって凄く楽しかったけど、また塀を越えて学校に帰ったら即講堂に呼び出され、説教くらって親に連絡されたナ。家の親は全然怒らなかったけど、先生が恐かった〜。(当然だろ!)
中・高は受験が会ったから勉強したけど、大学に入ったら、高校の時の大親友で美大に行った友達とギターでバスキングですよ。(爆)家の小屋を工房にして夏休みに朝から毎日作った沢山のハンドメードを、繁華街に行き2人でギター弾いて唄って客を集め、シートに広げて売リまくりましたよ。警察が来た時は焦りましたが場所変えてまたやった。(爆)一日で2万稼いでギターもう一本買いましたよ。
寮生以外は入れない厳しい大学寮に一度彼女を泊めたんですが、「夜トイレには行くな!」って言ってたのに行ったんですよ、そしたら案の定寮生とバッタリ!で、「知らない子が居る!」って大騒動。(バレたら私退寮処分になるから焦りました。)で、少し明るくなるのを待って寮の塀を乗り越えて逃がしましたよ。(笑)彼女はそんな早朝何もする事ないから、新聞配達の少年と友達になり一緒に新聞配達したそうな。(爆)彼女とはほんっと、本に出来る位沢山波乱万丈物語がありますよ。りみちゃ〜ん、元気〜?
彼の母シカは文盲でしたが、努力をして海の向こうにいる息子に手紙を書いたと言います。
私が離婚してすぐにやったアルバイトが郵便局でした。その時に日本から海外にポストカードを送っていた人がいました。
徳さんの記事、なんだか自分のことのように心に沁みました。
といいますのも、父が奄美大島出身で、私も9〜10才のころ2年間住んでおりました。方言、かもし出される雰囲気、まさに喜界島を含む、奄美地方のものです。お名前も徳さん。あちらに多い姓ですね。
父の友人たちも、おすもうさんからやくざもどきになった人やらいろいろです。
でも、ご本人の人生ですもの。それでいいんですね。
徳さんの記事を読んでそう思いました。
取りとめのないコメントで申し訳ありません。
徳さんのこと、よろしくお願いします<(_ _)>私もフォローさせていただけることがあればうれしいです。
今喜界島をGoogle地図で見ました。 あのGoogle地図をみるといつも心が落ち着きません。喜界島も日本列島全部世界で一番深い地震帯が直ぐ近くに走っていてこんなところに沢山原発が並んでいるのかと思うとぞっとします。世界の何処を見てもあんな深い亀裂はないですよ。アメリカは自国では地震の多いカリフォルニアを避けて日本には建てさせたなんて。
むべさん、私達の時代は皆アメリカに行きたいt思っていましたよ。ヨーロッパに行く人は当時少なかったですね。
昔は不便ではあったけどのんびりしていて良かったですよね。むべさんもそういうところがあったのですね。アメリカに来ている人ってちょっと強いと思いませんか。 私はかなり強いかも。本当に若いことって凄い事をしたもんだって感心します。 私も昔したこと今はできません。 アメリカに来る事だって。
むべさんのコメントはもう3日前になっていました!! ここのコメント日は日本時間なんですよね。 今日はここカリフォルニアもお天気が良かったですよ! 私達もちょっと早めに歩きました。 温度は70度ちょっとで下着をしっかり着こんでいたので汗ばみました。じいさんは半ズボンと半そでのTシャツ。 「暑いだろう」「暑いだろう」って言われたけど負け惜しみで「丁度いい」って言いながら歩きましたよ
へ〜はらさんの時代はグループサウンド時代だったんですね。 私、高校3年モンタナに居た時はイギリスからビートルズがアメリカに来たとかで大騒ぎをしていましたよ。 一年後日本に帰ってきたらブルーコメッツ??だったけ?が全盛でしたよ。 学生時代 薬局 なんていう名前だったかな? でアルバイトした時は一日中 ブルーライト横浜。
へーギターでバスキング! はらさんの募金運動のルーツはそこにあったのか!
夜トイレには行くな!ってそりや〜ちょっと可哀相でねえの?
りみちゃ〜ん、元気〜? 届くといいですね〜。 LAのナミサン、届いたんですから、長崎のお友達に。 そのごナミサン長崎まで会いに行きましたよ。
昔は多かったのでしょうね。 私の母の時代でもアルファベットを書けない人は多かったですね。 母も初めてアメリカに来た時は一人だったので一生懸命自分の名前だけはローマ字で書けるように練習していましたよ。
スイートサワー梅干のHush-sanさん
来年もまた梅干しが手に入ればつくってみたいですね。
奄美大島のご出身ですか! 私は種子島も奄美大島にも行った事がなく鹿児島に住んでいながら損をした感じです。 家族で旅行なんて殆どなかったですからね〜。 次回はアメリカ便り69号を載せますね。